<Q2>
「昨日の床屋の話は」と、マスターがご自慢のカクテルをステイしているとき、私は話かけた。
「自分で自分の髪を切る住人を除いた、全ての住人の髪を切る床屋」というのは、
全く正しいようで、けれど矛盾がある、ということだよね。」
マスター「そうです。これは数学の問題なんですよ。」
「なんでこれが数学の問題なんだ?」
マスター「つまり、全ての数学的定義は既に矛盾を内包しているという一例なのです。」
「例えば、数字の一は、何をもって1というか。1なんて厳密には存在しないという事実を
既に無視しているのです。」
「それは詭弁だろう。」
マスター「例えば、1/3+2/3は幾つですか?」
「そんなことは小学生でも分かるよ。」
マスター「でも、1/3=0.3333333・・・で、2/3=0.6666666・・・ですよね。
これを足したら、0.99999999・・・で、1では無いでしょう?」
「いや、0.9999999・・・の無限に繰り返す数は1だと、たしか学校で聞いたことがある。」
マスター「その通り。無限という概念を定義しておけば、この数式は成立するのです。」
「なるほどね。」と一応頷いて、私は今日最初のドライマテーニに口をつけた。
無限の話しと床屋の話しと関係は無いはづだが。なんだか騙されているような。
このBARのマティーニは、たっぷりのワイングラスくらいの量のカクテルグラスを氷の器に
沈めて、いつまでも冷えたままというのが特徴で、なんでも吉祥寺「ジュージズ・バー」、
佐伯ジュージさんのマスターの手法を真似たものだと、マスターは説明してくれた。
マスター「本来、マティーニは冷えたやつを3口くらいで飲むのが本当なんですが、それでは
あっという間で、昨今のお客さんは不向きなんです。」
店のカウンターも一杯になった頃、アルバイトのリョウちゃん、これがなかなかの清楚な美人で
彼女目当てに通ってくるお客も多いのだが、彼女と話している私に、マスターが割って入った。
「もっとまともな数学クイズ、お聞きになりますか?」
マスター「A駅とB駅は、直線で180kmあると思って下さい。この2つの駅から同時に列車が
向かい合って出発しました。時速60kmとしておきましょう。複線で、途中に駅は無いので、
いずれA列車はB駅に、B列車はA駅に到着するわけです。ところで、出発と同時に、一匹の
蜂がA駅からB駅に向かって線路上を飛び出しました。蜂の時速は200Km。
この蜂、当然向かって来るB列車に出会うわけで、驚いた蜂は向きを変えてA駅に引き返し
たのです。ところが、やがてA列車に出会ってしまう。蜂はまた向きを変えてB駅方向へ。
こうして蜂は行ったり来たり。やがて無限にこれを繰り返したあと、A列車とB列車のすれ違い
時に、つまりA駅とB駅の中間地点で線路上に落ちてしまいました。」
「無限だけれど有限だという話だね。」と、私。
マスター「さて問題です。この蜂は全部で何Kmの走行距離を飛んだでしょうか?」
「あのね、マスター」と、私。「これは酔っ払いの考えられる問題ではないよ。ちょうど
紙も鉛筆も無いし、明日まで待ってくれ。」
マスター「こんな難しい問題を出してしまってすみません。これは20世紀最高の数学者と言われる
ノイマンがパーティー会場で解いたという問題なんです。彼は暗算で1分足らずで答えを出したと
いうんですから、さすがに天才は違うという逸話なんです。」
「ノイマンと比較されては腹も立たないというもんだ。」
さて、この問題が解けなかったら私はもうこのBARには来れないではないか。
もしかして、私を店から締め出してバイトのリョウちゃんにちょっかいを出すのを防止するのが
マスターの狙いなのかも?
なんにせよ、この問題が頭から離れない私は気持ちよく酔うこともできずに、やがてお代わりを
勧めるリョウちゃんの誘いを断って、そそくさとチェックアウトすることにした。
私が店のドアに向かって歩き出したその瞬間、カウンターでやはり一人でカシスなんぞを飲んでいる
大学生のキリノ君、さっきからメモを使ってしきりと計算していたのだが、大声で「解けた」と叫んで
ニンマリ。
ああ、私は敗北者だ、と惨めな気分でリョウちゃんの顔にふと目をやって、彼女がキリノ君に一瞬
尊敬のまなざしを向けたのを見たのは私の思い違いなら良いのだが。
憂さを晴らしに飲みに来て、問題を抱えて帰るとは。「マスター、こんな風だと、いずれ客が来なく
なるよ」と心の中でつぶやいてみたののだが。