生命と自我
人の精神のなかで最もやっかいで重要な問題は自我というものだろう。
生命の中で人間が飛びぬけて自我意識というものを強く持っている。
もし人に自我というものが無く、植物や単細胞生命のように生まれて
生きて、生殖作業の勤めを果たし、疑問も持たずに与えられた死を享受
する生命体であったなら、幸福とか不幸とかいう無意味な感情に左右され
ることなかっただろう。
ハチドリが天国とか地獄だとかいう概念を必要とするだろうか。
彼らには多分、そんな概念は必要無いのだろう。必死に与えられた生を
生き、生殖活動に専念するが、死んでも自分という個を存続させようなどと
いう考えは持とうとも思わないに違いない。
人が死を強く恐れる理由は何故か。誕生と死を意識した埋葬という習慣
は10万年ほど前のネアンデルタール人に見られるが、現代の人の先祖と
言われるクロマニヨン人もその壁画芸術の能力からみて充分に生死を意識
していたことだろう。およそ25万年前位に遡るではないだろうか。
それ以前は人食の習慣の痕跡からも、自我意識はさほどではなかったと
思われる。
さて、蜂の社会のようにいくら子供をたくさん作り子孫を増やすことに
成功しても、人間は自分個人の死となると受け入れ難いのが現実だ。
人は生命の中で特異な存在なのだろうか。どうもそうであるらしい。
特に人間が遺伝子の主旨と反した意識と行動に出ることは特筆すべきこと
である。
例えば人間は生殖時期を自覚できない。ほとんどのというか、まず全ての
生物が生殖時期に従ってその活動を行う。サンゴは特定の一晩に一斉に
海中に精子を放出するし、雌猿はお尻を痛々しい程に真っ赤に膨らませて
その発情時期を誇示するが、人間において女性は生理日があるにも関わら
ず、排卵日を特定できずに思わぬ悲喜劇を招いてしまう。
これは遺伝子のコントロールが人の意識とうまくリンクしていない実例だが
その理由は次のようにも考えられる。
人は進化の過程で頭部が大きくなり、直立歩行の体系からも難産となった。
しかも産後は子供は一人前になるのに長い年月を必要として、女性の負担
は他の生物に比べて非常に大きい。
当然、人間の女性は意識の上で受精時期をコントロールしたくなる。
社会的に強い男性とめぐり合い、生活が安定する保証が得られるまで妊娠
は避けようと意識する。
しかしこれは遺伝子の目的とは相反する行動パターンだ。
そこで遺伝子は人間の女性には確実な生殖時期を教えず、主導権を渡すまい
と画策するわけである。
大脳皮質の人間の意識は明らかに遺伝子の管理下には無いと言えるだろう。
そういうわけで人間の自我意識も、遺伝子のコントロール下にある自然
の摂理とは異なるものだと思われる。幾ら子孫に恵まれても、私は死にたく
ないという感情を人は持ってしまうのだ。
さて、自我とは何か、人は本当に死を恐れる必要があるのだろうかという
問題を論理的に考えてみたい。
そこで、次のような課題を考えてもらいたい。答えが出せるだろうか。
2xxx年、遂にある学者が素粒子レベルで物体の複製を作る装置を発明
したと仮定してもらいたい。
ところがこの学者が最初に実験したことは、自分の複製を作ることだった。
装置のスイッチを押すまでの記憶や感情も当然ながら頭脳のなかのデータと
して複製され、複製装置からは同じ服を着て同じ笑顔を持ったもう一人の
博士が登場する。
二人は同じ歩調で歩み寄り、同じ右手で握手をかわした後で、全く同じ口調
で次のように言うのである。
「実験は成功した。なんという偉大な発明だろう。
ところで、実験は成功したのだから、君は消えてもらいたいのだが。」
さて、このときにどちらか一方の博士は納得して死んでくれるだろうか。
当然ながら二人ともに自我はある。しかし同じ自我を持つ存在がもう一人
宇宙に存在しているのだから、片方の自我は消滅しても自我が消滅するわけ
では無いようにも思える。
同じ自分が二人居れば便利だろうが、家庭や社会は一人分しか持っていないし
税金を二倍払うはめになるのも馬鹿馬鹿しい。ここはやはり片方が大人しく
消えてしまった方が理にかなっていると思うべきか。
さて、この時に人は死を恐れないだろうか。
この設問に対する解答こそが自我とは何かを端的にあらわすものだと私は
思うのだが。
しかし、これに対する説明は保留ということにしておきたい。
興味がある人は、ある程度考えた後でメールして下さい。
もったいぶるわけではなく、ある程度の思考の時間を持ってもらいたいからで
メールを頂ければ私なりの答えを5つの事例で説明しようと思います。
by MIMI